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レッテルの剥がし方

『犯罪者の更生を妨げる元凶は法律と風習が作り出す社会的制裁である』
これは、ヴィクトール・ユゴーの言葉であるが、
一度犯罪を犯した人間は、犯罪者として扱われることによって
社会の中で更生する芽を摘まれているということである。
人はどこまで寛容になれるのか?
考えるに値するテーマではないかと思う。

「レッテルが成功の芽を摘んでしまうことがある」ということについて、
今一度、二つの事例で考えてみたい。

◆社会におけるレッテル
先週、NHKのアナウンサーが「強制猥褻」で逮捕された。
よくもこれだけニュースになるものだ。
このニュースを流している人たちは、
そもそも報道は何のために存在するのか考え直したほうが良い。
ジャーナリズムの目的は「権力の監視」と「世論の形成」だと思うが、
この報道は何を目的にしているのか?
の報道によってNHKのアナウンサーの人生はどうなるのだ?
この報道を流している人たちには、その自覚があるのか?
良かれと思って報道しているとするとどんな正義だ?
確かに犯罪者は社会的制裁を受けるべきなのかもしれない。
しかし、社会的に葬る権利は与えられていないはずではないか?
「ドラゴンタトゥーの女」を刺客として送り込んでやろうか?
などと少々憤ってしまった。大人げない。

私の憤りの中にも報道の方々に対する「レッテル」が含まれている。
人の心は簡単に善か悪か決めつけられるものではないし、
報道の方々には、そうなってしまう事情があるはずである。
100%善な人もいないし、100%悪の人もいない。
「自分は決めつけて物事を見ることがある」と自覚したとき、
今まで見えてないものが見えてきたりする。

 

◆組織におけるレッテル
レッテルが貼られている例は企業内にもある。
『仕事で失敗をするたびに、「なんでいつもそうなんだ!」
と上司から叱られていれば、周りの社員からも軽んじられるようになり、
良い提案をしても、反論されたり、取り上げてもらえない状況になり、
やがて提案をすることはなくなり、益々評価を下げる』
なんてことは大なり小なりどこの職場でもある。

一方で、「あいつはできる」というポジティブなレッテルにも落とし穴がある。
一番危険なことは、その人の仕事の中身を盲目的に信用してしまうこと。

「過去に一流であったからといって、今も一流であるとは限らない」
「著名な人物であるからといって、本当に実力があるとは限らない」
「自信満々で話されている内容が本当に正しいとは限らない」
ということは頭で分かっていても、反応レベルでは非常に認識し難い。

組織内で醸成されるレッテルによっても人生は変わる。
そして、一度貼られたレッテルは自分で剥がすことはできない(に等しい)。

◆今回の主張は、
「軽々しく人の評価をするな」ということ。
もしくは、「人の評価は命がけでしろ」ということ。
それが「レッテルを貼ってしまう人間の性」への
我々にできる唯一の対抗手段ではないかと思う。

『誰もがよりよい人生を生きようとしている。
しかし、意図通り必ずしも成功しているわけではない。
何らかの阻害要因によって今の状況になっているだけだ』
という前提に立って、寛容な眼差しを向けてみると道が開けるかもしれない。

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